名前

 

子どもの頃、家の庭で見つけた小さな虫に名前をつけた。これは自分だけしか知らない虫だと、大切に大切に育て見守った。

ある時、家にあった昆虫図鑑を何気なく見ていると、その虫そっくりの虫が、そこにいた。

「   」

私はその虫の名を、図鑑に載っている物ではない、自分だけがつけた名を小さく呟き、図鑑を閉じた。私は放心状態で、「   」が入っている虫かごを持ち、庭へ出た。そして蓋を開き、虫かごを逆さまにした。拾い集めた葉っぱや枝、「   」の糞が勢いよく落ちた。「   」は何事もなかったかのように、芝生の上を進んでいく。その後私が「   」の名を呼ぶことは二度と無かった。

呼ばなかったというよりは呼べなかった。「   」に当てはまる言葉を忘れてしまったのだ。図鑑に載っていた名は覚えているのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が見つけたもの、経験したことに、既に名前があることを知って落胆する。大人になるにつれそういうことが増えるが、段々と名前がないものなんてないことを知り、ついには落胆すらしなくなる。さらに大人になると、残酷なことに、名前をつけようとする。なんとも息苦しくて、効率がいい。

今私は勤め先近くの喫茶店でココアを飲んでいるけど、もしココアという名前がなかったら、注文する際、「茶色い、牛乳の入った、甘い飲み物をください」と言うことになり、とてもまわりくどい。「ココア」という名前があることによってスムーズに、的確にコミュニケーションがとれるのだ。

しかし、名前は呪いだ。

別の店でココアを頼んだら、茶色ではなく、真っ白だったとする。これはココアじゃないと、拒絶する人がいるかもしれない。ココアという名を授けられたことの代償が、これだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たぶん、「   」は図鑑に載った名前を見られたことによって、彼女の中にある「   」の定義からはずれてしまった。さらに、幼かった彼女は、図鑑に載った名前を"正しい名前"だと思い込んでしまい、「   」を側に置いておくことに対する後ろめたさ、恥ずかしさに耐えられなくなった。

 

「   」はココアみたいな色をしていた。